野中八郎と猿影の名号
野中八郎と猿影の名号・第18回(平成11年5月掲載)

ころは南北朝時代、ある日のこと野中八郎は、いつものように赤薮山で狩をしていました。どうしたことかその日にかぎって一匹の獲物もなく、がっかりして山を降りている時に、一匹の大きな猿に出合いました。
しめた!」とばかりに一気に矢をつがえて、狙いを定めました。だがその猿をよく見ると身ごもった雌猿だったのです。
それを知った従者たちは、「この猿は殺さないでください」を一生懸命に制止しましたが、八郎はそれを聞かずに一気に射抜いてしまいました。
ところがその夜から八郎は、原因不明の高熱にうなされ続けました。医者を連れて来て診せても原因は分かりません。従者たちは、これは射殺した雌猿の祟りではなかろうかと、潔斎して一心に神仏の加護を求めて祈りました。
ある夜更けのこと、熱にうなされる八郎の夢枕に墨染めの衣を着た一人の聖僧が立ち、「この名号を一心に唱えて拝めば、必ずや病は癒えるであろう」と、一巻の軸を与えて告げました。
夢から覚めると、確かに枕元には一巻の軸があり、南無阿弥陀仏と六字の名号が書かれています。
ほどなく八郎の高熱も下がり、病は癒えました。身ごもった雌猿を殺したことを深く悔いて、頭を丸めて名を善了と名を改め出家し、小さな草庵を結びました。
手元に残った六字の名号は、見つめれば見つめるほど、不思議と猿の姿に似てきます。そのことから誰言うともなく"猿影の名号"と呼ばれるようになりました。
八郎が出家して結んだ草庵は、呼猿山聞信寺と名づけられ、これが今日に続く聞信寺の始まりです。猿影の名号もまた、寺宝として今日に伝えられています。
解説
野中八郎(善晴)は、河内国鋏山の城主とも伝えられていますが史実としては不詳な部分が少なくありません。梯区の開祖と言い、野中・梯両姓の始祖と伝えられる人物です。三潴・上陽線から広川ダムへの登り口の一段高まった場所に、野中八郎大明神として祀られています。
広川町郷土史研究会
- 文・岳野 住人
- 画・梅本 光男
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