経ガ嶺(きょうがみね)と十三塚

経ガ嶺(きょうがみね)と十三塚・第17回(平成11年4月掲載)

手前に木がある風景画が描かれたモノクロのイラスト

 氏を中心とする北朝勢とは、この広川の地で幾度となく激戦をくりひろげていました。
 中でも小松ガ原での戦は激烈を極めて、敵味方の別なく双方におびただしい数の戦死者を出しました。
 戦の後それら戦死者のむくろは、塚を築いて丁寧に葬られ、経ガ嶺の頂で僧侶が厳かに読経しその霊を弔ったと言います。
 経ガ嶺の山麓一帯に並ぶ十三塚こそが、その時に亡くなった将兵の埋葬塚にほかなりません。

解説

 十三塚には、丘陵上に並ぶ場合と平坦地に並ぶ場合とがありますが、いずれも南北かあるいは東西にほぼ一直線に並ぶことでは共通しています。
 平坦地に並ぶ列塚の場合は、おおむね戦死者埋葬伝説が伴っています。智徳・一條両区にまたがっている十三塚の場合もそうです。
 ただここで紹介した長延。日吉地区の場合、「筑後秘鑑」では、「神功皇后異国退治の時、見せ旗として十三本の旗を立てるために、十三の塚を築いた跡」、と言う異説を紹介しています。
 十三塚は、発掘調査をしても出土品がない場合が多く、築造年代を含めて、今日なお明解を得ることのできない、民俗学上の謎の一つとも言えるのです。
 これまでにも諸説が示されている中で、興味ある貝原益軒の説を紹介します。「筑前国続風土記」に記載があるもので、「(前略)或人日、十三塚をつく事、近古の風俗に、仏を信して冥福をねかふ者、父母の死にたる後、三日よりはじまりて、十三年忌まで法事を行ふ度ことに、塚を一宛築く。
(中略)凡十三度に十三塚をつけり、十三仏になそらふと云ふ。その塚の内には、仏経の文なと僧にかかせてうつみし也。此説さも有へし。他説は用ゆへからす。」
 最近では発掘調査の事例もだんだん多くなり、益軒説に言う「経文など埋納説」も案外に的を射ているように思えてきました。

広川町郷土史研究会

  •  文・岳野 住人
  •  画・梅本 光男

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