智徳熊野神社の由来譚
智徳熊野神社の由来譚・第11回(平成10年10月掲載)
その昔、紀州熊野権現北の馬場の人たちが、熊野権現をこの地に勧請して来ました。
民びとを語らい、御神体を臼の上に安置して、神社を建立しました。紀州から来てこの村に住みついた人たちは、ここで農夫となって山下姓を名乗ったといいます。
後になって権現のお告げによって、坂東寺へと遷座することになりましたが、最初に御神体を臼の上に安置して祀った場所は、今も有水(うすい)という地名で残っています。
有水山坂東寺の山号はこの故事にちなんで付いたものなのです。
解説
現在も続く坂東寺(筑後市)の山号は有水山で、明治の神仏分離以前は、隣接する熊野神社の神宮寺でした。
もともと広川荘(現在の広川町域を中心とする荘園)は、この寺の寺領だったのです。鳥羽天皇の中宮待賢門院(ちゅうぐうたいけんもんいん)に寄進して領家職になってもらいましたが、待賢門院がそれをそっくり、紀州熊野神社に寄進します。保延四年(1138)のこととされます。
この因縁から坂東寺へ、熊野権現が勧請されるわけです。久安二年(1146)川原源七郎を目代に、分霊として御鉾三本が遣わされます。実はこの時の文書の宛先は、坂東寺ではなく広福寺司参となっているのが問題です。
ここで智徳熊野神社の話が、俄然信憑性を帯びて来ると言うものです。「坂東寺縁起」では、貞和四年(1348)頃、御神託が下って寺名を改め、有水山坂東寺に変わったと言います。時は南北朝争乱の時代。寺の焼失(元弘三年・1333)の後、比叡山延暦寺が再興に乗り出します。貞和四年はそのために、延暦寺座主の執達状が出された年なのです。
近世まで熊野神社の祭礼には、智徳村の人たちが御神輿をかつぐ役を担っています。また、智徳の人たちが来ないと、鬼夜の火がつかないなど、熊野神社と智徳村とは深遠な縁があることは否定できません。ただ史料を検証する限り、智徳村有水の地に、最初に臼の上に安置した御神体というのは、あるいは熊野神社ではなく、坂東寺(広福寺が最初の寺名)そのものではなかった、とも考えることができるのです。
広川町郷土史研究会
- 文・岳野 住人
- 画・梅本 光男
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