海士漬の池と沈んだ鐘

海士漬の池と沈んだ鐘・第8回(平成10年7月掲載)

鐘が池に沈もうとしている海士漬の池と沈んだ鐘のモノクロのイラスト

 昔から、この池の深さは千尋なりと言い伝えられています。時は戦国時代のことです。ある日、黒木郷の善応寺というお寺から、西牟田城へ鐘を贈ることになりました。
 その鐘を運んでいた人たちが、池の側に鐘を置いてひと休みしていました。ところがどうしたはずみでか、鐘は突然池の中へと転がり込んで、水底に沈んでしまったではありませんか。
 息急き切って走り込んできた若者から、事情を聞いた西牟田の殿様は、海辺の村々から急いで海士を呼び集めて、池のある知徳村へと応援に走らせました。
 海士たちは池の底に潜って、沈んでいる鐘の竜頭にしっかりと綱を結びつけました。そして応援の村人たちも加わって、100人ばかりでこの綱を引きました。
 でもどんなに一生懸命に引いても、鐘はピクリとも動かず、とうとう沈んだ鐘を引き上げることはできませんでした。
 それ以来、その鐘は池の主となって、今でも池の底に人知れず沈んでいると言います。
 海士でさえも引き上げることができなかったことから、この池を海士漬の池とも呼ばれるようになりました。
 慶長年間のこの地方の領主は田中吉政公でしたが、ある日のこと柳川城から侍たちがやって来て、池の魚を取ろうとして土堤を破り、溜め水を流していました。
 池は干潟となり、たくさんの魚が跳ねるのを見た侍たちは大喜びです。するとその時、姿は見えませんが、激しく泥水を吹き上げるものがあります。それはたちまち暴風雨を呼び起こし、大粒の雨が激しく降り出したではありませんか。
 侍たちは驚いて池から上がりましたが、見物していた村人たちも恐ろしくなって、退散してしまいました。
 侍たちは大急ぎで破った土堤を繕ったところ、騒ぎはやっとおさまったと言うことです。それ以来、旱魃の時にはこの池に雨乞いを祈ると、必ず大雨が降ると信じられています。

解説

 善応寺は禅刹で、黒木氏の菩提所でした。黒木氏落去の後は退転していましたが、田中吉政の家老勘兵衛(黒木城番)が再興。その子息死去に伴い、宗真寺と寺号を改め浄土宗となって、今日に続いています。

  •  海士 … 男のあまのこと
  •  竜頭 … 鐘の頭部にある吊る部分

広川町郷土史研究会

  •  文・岳野 住人
  •  画・梅本 光男

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会事務局 生涯学習課 生涯学習係

〒834-0115
福岡県八女郡広川町大字新代1804-1
電話:0943-32-0093/ファクス:0943-32-4287

メールでのお問い合わせ