庄屋の大欅(おおけやき)

庄屋の大欅(おおけやき)・第2回(平成10年1月掲載)

大きな大欅の横に2人の着物を着た人が話をしているモノクロのイラスト

 豊臣秀吉公による天下の平定が終り、九州でも新しい国割りがなされ、筑紫広門公が上妻郡一万八千石の領主となりました。
 広門公は自分の新しい領地を見分するために、巡見を思いたちました。
 矢部村の方から順次に見て回り、長延村の萩尾庄屋の屋敷に立ち寄った際のことです。
 庄屋の屋敷では殿様が見えたということで、お茶や食事の接待で大騒ぎです。しばらく休んだ後に殿様一行は、次の村へと立ち去っていきましたが、一本の欅(けやき)の苗木が残されていました。恐らく矢部の方から持って来られたものだったのでしょう。
 庄屋は大急ぎで使いを走らせ、「欅(けやき)の苗木が残っていましたが、お忘れ物ではございませんか」と尋ねました。それに殿様は、「何も忘れ物などは無い、その苗木は屋敷内にでも植えておくがよい」と申されました。
 そこで、庄屋は屋敷の一隅にその苗木を植え、殿様が立ち寄られた記念にと大切に育てることにしました。
 その後長い間、風雪の害にも遇うことなく大きく生長して、天空に聳(そび)えるほどになりました。人々はこの木を"庄屋の大欅(おおけやき)"と呼ぶようになりました。

解説

 筑紫広門の上妻郡拝領は天正十五年(西暦1587)で、翌十六年に長延村庄屋に萩尾右近助(うこんのすけ)が任命されています。
 同十七年になると、上妻郡のうち矢部川右岸域は、小早川秀包(ひでかね)領(久留米領)に変わります。
 村庄屋萩尾氏も宝暦二年(1752)には、古賀組稲員氏に代わって萩尾八之丞が、大庄屋(長延組)を拝命します。このために宝暦四年の農民一揆に際して、打ち壊しの被害に遇うことになります。そのようなことがあって、同六年には大庄屋職を西村氏(吉常組)に譲り、村庄屋へと変わっていきます。
 "庄屋の大欅(おおけやき)"は今日なお樹勢は盛んで、幹周570センチメートル、樹高は40メートル、枝張31メートルを計ります。
 興味ある言い伝えを秘めながら、広川町内随一の名木として不動の位置を占めています。

広川町郷土史研究会

  •  文・岳野 住人
  •  画・梅本 光男

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