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知徳城と一條殿
知徳城と一條殿●第20回(99年7月掲載 最終回)
一條殿(いっじょどん)とは、一條和泉守のことで、戦国時代に山下城主蒲池氏に従う武将でした。
和泉守はもとはと言えば、下妻郡本郷の城主で、溝和泉守と言うのが最初の姓名でした。
山下城主の蒲池氏は上妻・下妻の両郡内に、十一カ所の出城を構えて、肥前の龍造寺氏の来襲に備えていました。その出城の一つが知徳城だったのです。その城番を命じられていたのが、和泉守兄弟でした。
戦のない時には、一條村に家屋敷を構えて住んでいましたので、一條氏を名乗ることになりました。そんなことから村人は、誰言うとなく一條殿(いっじょどん)と呼び親しんでいました。
天正十三年(西暦1585)五月十日、肥前龍造寺氏の家臣横岳頼次の大軍が山下城を攻めようとして、まず知徳城に押し寄せて来ました。城を守る和泉守兄弟は、篭城していては形勢不利と見て、自ら城を出て大野ガ原にこれを迎え撃ち、勇敢に戦いました。
だが多勢に無勢で奮戦の甲斐もなく、兄弟ともども討ち死にしてしまいました。敵味方ともに多くの戦死者が出ましたが、戦の後で村人たちは小さな塚を築いて丁重に埋葬し、それらの霊を弔ってあげました。知徳村から一條村へと続く往還沿いに一列に並んだ塚こそ、その時の物で、十三塚と呼ばれてきたものにほかなりません。
一條村の大坪という場所に、大きな自然石が七五三縄(しめなわ)を張られて祀られています。銘も年号もありませんが、この石のこと和泉守の墓と信じられています。もっとも本当の墳墓はその北側の畑にある小薮とも言うのですが、村人たちがお参りし易いように現在の自然石を建てたと言うのです。昔はこの自然石を社日神(しゃにちかみ)と呼んで、春秋の彼岸にお祭りが行われていました。
でも村内に病災が多く続くことから、九月六日に祭礼の日を変えたところ、不思議にも病災はピタリと止まったそうで、この日こそ和泉守の討ち死にした真の命日だとする、根強い説も伝えられることになりました。
<解説>
本郷 ・・・ 山門郡瀬高町。
山下城 ・・・ 現在の立花町山下の南の山にあった。
大野ガ原 ・・・ 知徳区内の東方の地名で、観音堂のある一帯。
社日神 ・・・ 立春・立秋から数えて五番目の戊の日が社日で、そのころに来臨し、昇天する作神とも認識される。
広川町郷土史研究会
文・岳野 住人 画・梅本 光男