本文

海士漬の池と沈んだ鐘

更新日:2005年7月1日このページを印刷する

 海士漬の池と沈んだ鐘●第8回(98年7月掲載)

 

海士漬の池と沈んだ鐘

 昔から、この池の深さは千尋なりと言い伝えられています。時は戦国時代のことです。ある日、黒木郷の善応寺というお寺から、西牟田城へ鐘を贈ることになりました。
 その鐘を運んでいた人たちが、池の側に鐘を置いてひと休みしていました。ところがどうしたはずみでか、鐘は突然池の中へと転がり込んで、水底に沈んでしまったではありませんか。
 息急き切って走り込んできた若者から、事情を聞いた西牟田の殿様は、海辺の村々から急いで海士を呼び集めて、池のある知徳村へと応援に走らせました。
 海士たちは池の底に潜って、沈んでいる鐘の竜頭にしっかりと綱を結びつけました。そして応援の村人たちも加わって、100人ばかりでこの綱を引きました。
 でもどんなに一生懸命に引いても、鐘はピクリとも動かず、とうとう沈んだ鐘を引き上げることはできませんでした。
 それ以来、その鐘は池の主となって、今でも池の底に人知れず沈んでいると言います。
 海士でさえも引き上げることができなかったことから、この池を海士漬の池とも呼ばれるようになりました。
 慶長年間のこの地方の領主は田中吉政公でしたが、ある日のこと柳川城から侍たちがやって来て、池の魚を取ろうとして土堤を破り、溜め水を流していました。
 池は干潟となり、たくさんの魚が跳ねるのを見た侍たちは大喜びです。するとその時、姿は見えませんが、激しく泥水を吹き上げるものがあります。それはたちまち暴風雨を呼び起こし、大粒の雨が激しく降り出したではありませんか。
 侍たちは驚いて池から上がりましたが、見物していた村人たちも恐ろしくなって、退散してしまいました。
 侍たちは大急ぎで破った土堤を繕ったところ、騒ぎはやっとおさまったと言うことです。それ以来、旱魃の時にはこの池に雨乞いを祈ると、必ず大雨が降ると信じられています。

<解説>
 善応寺は禅刹で、黒木氏の菩提所でした。黒木氏落去の後は退転していましたが、田中吉政の家老勘兵衛(黒木城番)が再興。その子息死去に伴い、宗真寺と寺号を改め浄土宗となって、今日に続いています。
 海士 ・・・ 男のあまのこと
 竜頭 ・・・ 鐘の頭部にある吊る部分

 広川町郷土史研究会

 文・岳野 住人 画・梅本 光男

この情報はお役に立ちましたか?

より良いホームページにするために皆様のご意見をお聞かせください。

このページの情報は役に立ちましたか。
   
このページは見つけやすかったですか。
   
このページにはどのようにしてたどり着きましたか。
       

このページについてのお問い合わせ

[ 生涯学習係 ]
〒834-0115 福岡県八女郡広川町大字新代1804-1  Tel:0943-32-0093 Fax:0943-32-4287 メールでのお問い合わせ